心の自由
さてさて、
昨日は移動の自由について書きましたが、
移動の自由がなくても別に心は自由でいられるよなぁ、と思ったので、記録しようと思います。
こんな時は、心が自由って言えるのかも、
という状態を思い浮かべて書いてみました。
●「足るを知る」の状態でいられる時
喜びの沸点が低い方が幸せに生きられるな、と思う。
比較的そういう種類に生まれて来たと思うのでラッキーかも。
あるものに目を向けられている。
あるものの中に喜びを見出している。
目の前のものをありがたく受け取っている。
みたいな感覚。
●心が触れる、惹かれるものに敏感でいられている状態
そもそも「心が触れる・惹かれる」感覚に敏感でいられる時点で“心が自由”に近い気がする。
●「頼る・助けを求める」ことがすらっとできている状態
これ、長女気質で苦手な分野。
だけど、自分の力ではどうしようもできない環境にいると、
これができることすごく大事だなと思う。
●「効率性・結果をある程度手放す」ことができている状態
これ、昨日書いた移動の自由と相反するようなことでもあるなと思うけど、
結果や「全てを知っておくべし!(助けを求めるにもつながるけど)」という考えを手放すと心が自由になるなという感覚があるかもなと思う。
こちらにきて改めて感じたのは、
初めてのこと(ジュエリーとか、交通とか)に直面した時に、
正しいやり方を把握して失敗したくないとか、
最も効率のいい移動方法をあらかじめ考えて無駄に移動したくないとか、
全体のプロセスを”把握”して”コントロール”したくなっちゃう傾向があったんだったなぁ、
ということ。
そうしたやり方が適している場面もあるけど(仕事とか)
やりながら進める、
わからないけどやって見る中でわかっていくとか、
成果を手放して(必要なプロセスが起こると信じて動く)
「今」の連続の中にいると、それはそれで面白い結果に導かれることを信じて進むとか。
そんな感覚でい続けられたらさらにフリーダムかも。
Google先生に聞いたらなんでも答えてくれる時代だから、
つい、
大体のことは自分で準備したりコントロールできる、気になってしまうけど、
歩いていて偶然見つけた小道を入って出会ったお店の方が、心が喜ぶ、とか、そんな感じ、、
なんだかとりとめもない文章になってしまいましたが、
ただの雑記を読んでくださった方、
ありがとうございます^_^